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その@ 緒言、攻撃と損害、広島まで
(原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/
bomb/large/documents/index.php?documentdate=1946-06-19&
documentid=65&studycollectionid=abomb&pagenumber=1)
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註: |
通常訳する時は自分のメモを入れながら翻訳し、あとでメモは外して仕上げるのだが、この米国戦略爆撃報告は、メモを入れたままの方が敢えて親切と考え、このままアップロードすることにした。読むのが煩雑になると言うマイナスは目をつぶることにした。(*)部分が私が自分のためにいれたメモである。もちろん読み飛ばしてもらって構わない。
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註: |
原文にはないタイトル中見出しを入れた。読み手の負担を少しでも軽減するためと、部分部分の主要な話題を提示するためである。原文にはなく、私が入れたタイトル・見出しは青色にしてある。
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註: |
米国戦略爆撃調査団―U.S. Strategic Bombing Surveyのは報告は何度か行われている。太平洋戦争に関して主要なものはこの1946年6月30日付けの「ヒロシマとナガサキ」報告と、1946年7月1日付けの「太平洋編」の報告書であろう。いずれも要約報告である。太平洋編の完全な報告書は翌1947年に完成提出されている。
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註: |
ここに訳出した、「米国戦略爆撃調査団報告 広島と長崎への原爆の効果」は、1946年6月19日付けのものである。これはドリバー団長がトルーマン大統領に提出した下書き版でドリバーは、トルーマンにこの19日版を見せてから30日版を完成提出した。
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註: |
長文にわたるため分割して掲載することにした。 |
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米国戦略爆撃調査 |
広島及び長崎の原子爆弾投下の効果
(The Effect of the Atomic Bombing of Hiroshima and Nagasaki)
委員長事務局 1946年6月19日
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日本に対する空爆効果を調査 |
はじめに |
米国戦略爆撃調査団は1944年11月3日に陸軍長官によって設立された。ルーズベルト大統領の直接指示に従ったものである。
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米国戦略爆撃調査団は英語ではUnited States Strategic Bombing Survey である。これを調査団と日本語に置き換えるのは若干抵抗がある。本来なら調査グループとか調査委員会としたいところだ。しかし何故かこの訳語が与えられ、国会図書館の索引でも米国戦略爆撃調査団となっている。何かしら私の知らない妥当性があるのだろう。従ってこの文章でも「調査団」とする。) |
その使命はドイツに対する航空攻撃、またそれに関連して日本に対する空爆の効果を完全かつ専門的に調査することにある。かつ軍事戦略の器官としての「航空軍事力」重要性及び潜在力を評価する基盤を確立するところにある。もって、合衆国航空軍事力発展に関する計画及び国防に関する将来の経済政策を決定するためのものである。
ドイツに関する調査は、要約報告書及びそれを裏付ける200点にも及ぶ報告ができあがり、すでに公にされている。
1945年8月15日、トルーマン大統領は、対日戦争に置いて行われたすべてのタイプの航空攻撃の効果に関して、同様な調査を実施するよう要請した。そして複製の上、陸軍長官、海軍長官に送付するものとする、とした。
日本に関する調査団は、フランクリン・ドリバー(Franklin D’Oliver)を委員長とし、ポール・H・ニッツ(Paul H.Nitze)、ヘンリー・C・アレグザンダー(Henry C. Alexander)を副委員長、ウォルター・ワイルズ(Walter Wilds)を事務局長、その他の委員(directors)はハリー・L・ボウマン(Harry L.Bowman)、J・K・ガルブレイス(J.K.Galbraith )、レンシス・リカート(Rensis Likert)、フランク・A・マクナミー(Frank A. McNamee)、フレッド・シールズ・ジュニア(Fred Shearls,Jr.)、モンロー・スペイト(Monroe Spaght)、ルイス・R・トムプソン博士(Dr. Louis R.Thompson)、セオドア・P・ライト(Theodore P. Wright)である。
調査は、300人の民間人、350人の士官、500人の下士官(の証言)からなる補注をも備えている。
この組織(調査団のこと)は陸軍から60%選抜され、海軍から40%選抜された。陸軍と海軍は調査団に支給兵、物資、輸送、情報などすべて可能な限りの助力を与えてくれた。調査団は1945年9月の初旬、東京に本部を置き、名古屋、大阪、広島、長崎に副本部をおいた。そして日本の他の各地、太平洋諸島、アジア本土(中国のことと思われる。)に置いては移動チームが活動した。戦争中の日本の軍事計画を再現することは可能であった。任務ごとの遂行状況、戦線ごとの遂行状況などである。日本の経済体制に関する合理的に正確な統計を担保することも可能であった。また戦争中における工場ごとの生産状況、産業別の生産状況などである。これに加えて、日本の全体的な戦略計画、戦争突入の背景、無条件降伏に至るまでの内部における議論とやりとり、一般民間人の健康状態及び士気状態に関する流れ、日本の民間防衛組織の有効性、原爆の効果などに関する研究も実施した。別報告で各分野の研究を提出する所存である。
調査団は700人以上の日本の軍人、政府関係者、民間における要人を尋問した。また調査団は多くの文書を発掘し翻訳した。それらは調査団にとって有用であるばかりでなく、その他の研究にとっても価値あるデータである。調査団の資料ファイルは、将来のさらなる研究や配布のできる機能をもった恒久的政府機関に引き渡されることになっている。
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目次 |
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T. 緒言 |
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U. 原爆投下の効果 |
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A.攻撃と損害 |
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1. |
攻撃 |
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2. |
広島 |
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3. |
長崎 |
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B.全体的効果 |
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1. |
人的損害 |
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閃光火傷(Flash Burns) |
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その他の負傷 |
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放射線症 |
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2. |
士気 |
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3. |
日本の降伏の決定 |
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V. 原爆の働き |
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1.爆発の性質 |
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2.熱 |
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3.放射線 |
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4.爆風(Blast) |
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5. 原爆と他の兵器との比較 |
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W. 道標 |
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A.危険性 |
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B.我々に出来ること |
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1. |
シェルター |
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2. |
非集中化 |
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3. |
民間人防衛 |
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4. |
積極的な防衛 |
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45年10月―12月10週間にわたる調査
T. 緒言
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軍事兵器としての原爆の威力に関する手に入る限りの事実は、広島と長崎において実施した出来事の中に存在している。これら事実の多くは、すでに公式・非公式の形で発表されているが、誤りやゆがみが混入している。従って米国戦略爆撃調査団は創設当初の目的を遂行すると共に、広島と長崎で原爆が何をなしたかに関する極めて網羅的なページをつけ加えることにした。原爆がいかにしてこれら効果を達成したかに関する説明と共に、一連の報告書は、打撃、損害、政治的余波などについてもその性格や規模などについて述べている。基盤は調査団調査員の観察、分析、合理的推量に基づいている。複雑きわまる事情と防衛問題に対する新たな応用を必要とする極めて込み入った出来事ではあるが、明確に分類してある。
原爆が落ちたとき、(* 原文はWhen the atomic bombs fell!)、米戦略爆撃報告調査団はすでにドイツの戦闘能力と抵抗力に関する戦略爆撃の効果に関する報告を完了していた。同様な戦略爆撃効果の日本における研究の計画がはじまったのである。日本に対する原爆投下のニュースで、この計画は新たな緊急性を帯びることになった。それは対日航空戦争に関する研究は明らかにこの新兵器と密接につながっており、また(戦争において)空軍力が決定的要素となるかもしれないような新たな集中的攻撃の可能性と密接につながっているからである。従って、調査団の理事たちは原爆の効果について自ら消耗するほど徹底的に調べることに決めた。日本に与えた影響・この結果が意味するところのものなどに関して、自信をもった分析であるべきだと考えたからである。専門家からなるチームが、投下爆撃、民間防衛、士気、地域生活、公共設備、輸送、各種産業、全体経済、政治的波及効果などの各段階にわたってそれぞれの特殊性に力点を置くべく選抜された。1945年の10月から12月にかけての10週間にわたって、全体でいえば110人以上の人たちの、技術者、建築家、火災問題専門家、経済学者及び研究家、医師、写真家、製図専門家などからなる参加があった。
それぞれの研究は、すでに公開され要約報告の追補にリストしておいた。
その他の調査組織と極めて密接な連携が保たれたこともつけ加えたい。協力関係が以下のグループから得られたかあるいは共同で事に当たった。
日本における原爆調査合同委員会 (* The Joint Commission for the investigation of the Atomic Bomb in Japan. 調べたが適当な訳語がなかった。)
対日イギリス使節団 (* The British Mission to Japan)
海軍対日技術使節団 (* The Naval Technical Mission to Japan)
合同委員会の医学グループについては特記しておきたい。大きなおかげを蒙っているからだ。同グループのデータや諸発見はそのまま調査団報告書で使われている。原爆の医学的側面については同合同委員会の医学グループは、主たるファクト・ファインディンググループだった。共同委員会は近く完成報告を公にすると思う。その他の分野、特に物理的損害や地域生活に与えた影響などについては、米国戦略爆撃調査団が独自のデータを収集し、また第一次資料となっている。
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警戒のゆるみが被害を拡大(?)
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史上例をみないタイプの最初の兵器、たった1個の原子爆弾が広島市の頭上で爆発したのは、1945年8月6日朝、8時15分だった。(* この時間の表示は軍隊風に0815と書いている。オー・エイト・ハンドレッド・フィフティーン、とでも読むのか。)
ほとんどの工場労働者はすでに勤務を開始していたと言われている。しかし多くの勤労者は出勤途上だった。また工場労働者の一部及びほとんどすべての生徒・学童は戸外において、防火帯を作るため建物を移動させる作業か重要品を地方に疎開させる作業に従事していた。
攻撃は、その直前の警報を解除する知らせ(* 解除する知らせは原文では”all clear”と括弧書きになっている。)から45分後にやって来た。
(* |
原爆投下時広島の市民がどんな状況であったかは、サーチエンジンで「広島 原爆投下」と入力すれば夥しい数の報告を読むことが出来る。) |
小編隊の航空機に対する警戒心の欠如と無知な民衆の無関心のため、爆発はほとんど完璧に誓い驚愕をもって訪れた。また民衆はシェルターを持たなかったのである。
(* |
無知な民衆の無関心に相当する原語はpopulace’s indifferenceである。だから「民衆の無関心」と訳しても良かったのだが、これでは書き手のニュアンスが伝わらない。というのはpopulaceは民衆を侮蔑的に表現する言葉である。それに続く、民衆はシェルターを持たなかった、と言うところではpeopleを使っていて、populaceと明確に使い分けている。こうしたことからpopulaceを無知な民衆と訳出した。) |
多くは戸外で被爆した。残りは薄っぺらい自宅の中か、商業的な施設で被爆した。
原爆は広島市の中心からやや北西にずれたところで爆発した。(投下の)精確さ、広島の平坦な地形、広島市の円状の形のため、広島は一様にまた相当程度廃墟と化した。
(* |
広島市の形であるが、原文では円状―circularとなっているが、実際は扇状三角州―a fan deltaである。) |
特に、広島市内の建物稠密地域や準稠密地域では、爆風となめ尽くす炎のため平地になった。「火事場嵐」(* 原文では”fire-storm”と括弧書きになっている)は、大火災の際、時に発生する自然現象だが、これが広島で発生した。広島市の中心から広範な平坦地域では、ほぼ同時発生的に火の手があがった。
(これら火の手は)空気を伝ってすべての方向に広がった。
大気の流入が、地上における自然な風に打ち勝つのはごく簡単で、爆発から2−3時間後には風速30−40マイル(* 1マイルは1.6Kmだから風速48Kmから64Km)に達した。熱風と市の中心部がほぼ対称に作られているため、市の中心部のほぼ円形4.4平方マイル(約12平方キロメートル)はほとんど完全に焼け落ちてしまった。
多くの建物が崩壊して走った驚愕と大火災のせいで全く予期しないほどの高い損害率を見せた。7万人から8万人が死亡したかまたは行方不明、推定死亡となった。また同数が負傷した。その損害の規模は、1945年3月9日・10日に実施された東京大空襲とくらべると際だっている。東京大空襲では、16平方マイル(約50平方キロメートル)が破壊されたが、死者の数は決して負傷の者の数より大きくはなかった。
(* |
3月10日の東京大空襲では、約8万人から10万人が死亡している。焼夷弾攻撃だったから当然負傷者はこの数倍以上であったろう。しかしこの比較は比較になっていない。非人道性・残虐性を全く異なる基準で比較している。) |
その3日後の長崎では、広島での惨劇の記事が8月8日付けの新聞で報じられたにも関わらず、ほとんど(攻撃に)準備した跡がなかった。長崎県の原爆投下に報告から類推するに、爆発(explosion)の衝撃は次のようなものだったと思われる。
「その日は快晴で、雲はほとんどなかった。普段と変わらぬ真夏の一日だった。大衆はうち続く空襲の緊張感と夏の厳しい暑さのために、空襲に対する警戒心をいささかゆるめていた。7時48分に空襲警戒警報が発令された。7時50分には空襲警報になり、8時30分には解除された。人々の警戒心は救われたような気持ちで消えていった。」
(* |
空襲時、通常、市中ではサイレンを鳴らしていた。初期は6秒吹鳴3秒休止を10回、のちに4秒吹鳴8秒休止を10回とし、1945年5月1日からは空襲の激化にともない4秒吹鳴8秒休止を5回となった。空襲警報解除はサイレン吹鳴を初期は連続1分間、のちに3分間。
また、当初警戒警報はサイレンを用いなかったが、1943年4月9日からはサイレンを3分間連続吹鳴して警戒警報とした。解除は口頭。これはhttp://radiofly.to/wiki/?%B6%F5%BD%B1%B7%D9%CA%F3%CA%FC%C1%F7 の記事に出ている。)
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(* |
この記述は原文では長崎県の報告、となっているが内容は明らかに広島の原爆投下に関する記述である。長崎への原爆投下は午前11:00ごろだった。
私が選んだ原文テキストが誤っていたか、この記述の広島が長崎の誤植だったか、この報告書の書き手あるいは編集者がもともと間違えていて、あとでも訂正がなされなかったか、のいずれかである。) |
(* |
この報告書の書き手は、市民の警戒心がゆるんでいたことを強調しているが、これが何の目的でなされている強調かが分からない。警戒してみたところでなんにもならなかったのだから。通常兵器による空襲に置いては、警戒が少しは役にたったかもしれない。しかし原子爆弾に置いては警戒などなんの役にもたたない。もしかすると広島・長崎における被害が大きかったのは、警戒されていなかったことにも一因があるといいたいのかもしれない。) |
長崎市は、警戒警報が残されたままだった。(* 原文では単にThe city となっているが、前後の文脈からして明らかに長崎市を指している。)しかし2機のB−29が視界に再び姿を表しても、空襲警報は即座に鳴らなかった。原爆は11時02分に落とされた。空襲警報はそれから数分後、11時09分に発令された。」
(* |
日本語Wikipediaでは、「長崎市への原子爆弾の投下」という項目の注1に「アメリカ軍の記録による投下時刻は午前10時58分」とある。しかし米戦略爆撃報告によっても11時02分に投下した、となっている。午前10時58分がどこから出てきたかは今のところ不明。) |
このように長崎市のトンネルシェルターに避難出来た人はわずかに約400人。これは市全体人口の約30%に相当する。
(* |
この記述がまたわからない。原文をそのまま引用すると、Thus only about 400 people were in the city’s tunnel shelters, which were adequate for about 30 per cent of the population. である。この時長崎市の人口は24万人。30%の人間が防空壕に避難できたとすれば、8万2000人が防空壕にはいったことになる。) |
(* |
もう一つ気になることがある。長崎に落とされた爆弾はプルトニウム型だから、専門的に言えばexplode-爆発ではなく、implode-爆縮である。一般的に言えば爆発も爆縮もおなじことだから構わないが、この報告書が専門家による完全かつ一点非の打ち所のないものであることを自称するなら、プルトニウム型原子爆弾の炸裂をexplosionと表現するのはためらいがあるはずだ。Implosionでなければならない。現に同じプルトニウム爆弾を使った最初のアラモゴードにおける原爆実験を、レスリー・グローブズがスティムソンに当てた報告書ではimplosionで一貫している。原子爆弾の知識に関する限り米国戦略爆撃報告調査団の専門性には疑問符が付く。) |
「原子爆弾が爆発したとき、ものすごい量のマグネシウムを焚いたときのようなものすごい炎が
見えました。そしてその光景は白い雲で次第に霞んでいきました。と同時に、爆発の中心部のところで、またその直後には別な場所でも、ものすごいとどろくような音(tremendous roaring sound)が聞こえました。押しつぶされるような衝撃波と高い熱を感じました。長崎の人たちは爆発の外端に住んでいたにも関わらず、みんな直撃を受けたように感じました。通常の爆弾がそこここを直撃したかのような被害に市全体が苦しむことになったのです。」
「損害がもっとも大きかった地域―ゼロ・エリア(The Zero area)では完全にふき取ったように何もなくなりました。爆発のしばらく後でも、その地域からは報告は一切来ませんでした。損害が比較的大きかった地域からの報告は、爆弾の直撃を受けたといったたぐいのものでした。もしこのとてつもない損害が一発の至近弾(a
near miss)によってもたらされたものだとするなら、原子爆弾の威力はとてつもなく大きいということになるでしょう。」
(* |
「」で囲ったコメントは報告書が引用しているものである。前後の文脈からしてあきらかに長崎県の調査団への報告と思われる。) |
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火事場嵐が起きなかった長崎
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長崎では、火事場嵐(a fire storm)は起きなかった。その不等形の長崎市の形のため、その上空で爆発が起こった谷で被害が最大限のもとなった。その地域はほとんど廃墟になったが、このような地域は(広島より)遙かに狭かった。1.8平方マイル(4.6平方キロメートル)の地域で、損害もまた(広島より)低かった。死者は3万5000人から4万人で、またほぼ同数の負傷者が出た。
防空壕にいた人たちは、入り口のところで被爆しなかった限り、負傷から免れた。
(* |
この記述を広島・長崎の人たちはなんと読むだろうか?爆縮に直接接することを「被爆」という。放射線を浴びることを「被曝」という。どちらも「ヒバク」だ。この報告書では「被曝」は負傷ではないと言っているに等しい。核兵器の専門知識に乏しいと言わざるを得ない。当時放射線被曝の知識は一般的なものになっていなかった。それどころか、バーチェットの「原子の伝染病」に対抗して、マンハッタン計画の最高執行責任者だったレスリー・グローブズはニューヨーク・タイムズのウィリアム・L・ローレンス−ウィリアム・H・ローレンスとは別人―などを使って、原爆は放射線障害を引き起こさないとする大キャンペーンを張った。ちょうどこの調査団が調査に着手するころである。そして多くのアメリカ大衆はこれを信じた。この報告書にその大キャンペーンの投影を見いだすのは私だけだろうか? 参考資料は以下。http://www.inaco.co.jp/isaac/back/009/009.htm ) |
2つの都市における生命と財産の破壊を全体的に見た時、その違いは都市の配置や建設の環境における特殊性が重要ということを示唆している。原子爆弾の効果を評価するとき、こうした環境の特殊性が効果と結果について影響を与えると言うことを考慮しなければならない。2つの都市の性格や歴史は、それぞれ損害や混乱における細部を意味づけるものに過ぎない。 |
ヒロシマ
2.広島
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広島市は太田川の大きな扇状三角州の上にある。太田川の7つの川口は広島市を6つの島に分け、ちょうど指を広げたような形で瀬戸内海に面する広島湾に臨んでいる。
(* 川口に相当する原語はmouths)
太田川の7つの川は広島市に最適な防火帯を装備させることになっている。広島市全体は平坦で海抜より若干高い位置にある。主要な橋は81もあり、高度に発達した橋システムが島々を連絡している。市の東側には腎臓に似た形の丘があり、長さは1/2マイル(約800m)で高さは221フィート(約66m)である。(* これは比治山のことである。)
この丘は、原爆落下地点から東反対側の建造物に対してちょうど格好の防御帯となった。その他の地域は原爆の拡散するエネルギーのため一様に被爆した。
広島市の境界線は、西側と北東川の低い丘々まで伸びており、(広島市は)26.36平方マイル(約67.5平方キロメートル)の面積を抱いている。しかし13%だけが市街地である。うち7平方マイル(約18平方キロメートル)だけが建物稠密地域かまたは準稠密地域である。そのほかはまばらな住宅地域、倉庫地域、丘陵地域である。中心部は特に系統的なゾーニング、商業地区、住宅地区、産業地区、などの地域割りは見られない。機能別におおざっぱな区別があるだけだ。主たる商業地区は広島市の中心部に位置している。また市の中心の島では陸軍中国地方軍の本部が広大な面積を占めている。
(* |
当時広島城内には陸軍第五師団司令部があった。また宇品には陸軍船舶輸送司令部があった。) |
住宅地域と(陸軍の)兵舎は混在しており、この中心部を取り囲むようになっていた。産業地域は市の周辺部に位置している。島々の南側の地域(広島空港もここにある)か東側の地域である。一般住宅、商業地区、軍事地区の人口は全体の75%を占める。もし原爆投下の時に広島市の人口が24万5000人だったとするなら、多分そうだと思うが、人口の密集した地域での密度は1平方マイル(2.56平方キロメートル)あたり、4万6000人に達していたとみて間違いない。
5回の疎開命令が実行され、6回目の疎開計画が実施されていた当時の広島市では、戦時ピークの人口38万人から減少していたのである。
お粗末な作りの建物が被害を大きくした(?)
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広島では(長崎でもそうだが)、住宅(the dwellings)は木造である。半分は平屋で、残りが1階半か2階建てだ。屋根を覆うものは、堅く焼いた黒いタイルだ。壁に石作りのものはない。また住宅の大きな部分はゴチャっと密集している。こうした様式の建造物とともに旧式の防火設備と不適切に訓練された消防要員がいて、平和時の大火災に対応するのもおぼつかないくらいだ。産業用の建物も木造の骨格でアメリカの基準からすると、多くはお粗末な作りだ。建物の作りの弱みは主としてその脆弱なほぞ(tenons)、不適切に張られた結合部分、不適切にあるいはお粗末に平行を持たせてある支柱などにある。鉄筋コンクリート建ての建物にしても設計上の非均質性、質の悪い材料を使ったことを示している。ある種の建物の細部(たとえばモルタル作りなど)は、しばしはお粗末で、コンクリート部分は間違いなく脆弱である。このような理由で爆心(ground
zero)から2000フィート(約600m)以内の鉄筋コンクリート建ての建物でも崩壊するか、大きく損壊したのである。3800フィート(約1140m)以内の建物でも中には、内部壁が完全に破壊されたものも出ていたのである。(ちなみにground
zero とは爆裂した地点またはair zero地点の直下の地上の地点をいう。)
(* |
空中で爆裂する原子爆弾の使用に置いては、当時はground zeroという言葉が英語でも新しい概念だったと見えて、報告書原文に注釈を加えている。空中の爆裂点をair zeroと呼ぶのは、この報告書で初めて知った。なおこの注釈では爆裂を正しくdetonationと記述しており、explosionとしていない。この注釈は核爆発の専門的な知識をもった別な誰かが記述したものと思われる。) |
(* |
長々と広島の建物のお粗末さを説明している。広島での被害が大きかったのは、建物のお粗末さが一因だとでも言いたいのかも知れない。しかしそうだとすればいささか納得しがたい。1945年7月、ニューメキシコのアラモゴード砂漠で行った最初の原爆実験の詳細レポートが、レスリー・グローブズからポツダムにいたヘンリー・スティムソンに届けられている。その詳細レポートには次のようにある。
1. |
蒸発点 爆心から半径0.5マイル(約800m)まで。死亡率98%。
死体は行方不明または識別できないほど焼けこげる。
行方不明とはこの場合すなわち蒸発である。 |
2. |
全破壊帯 爆心から半径1マイル(約1.6Km)まで。
死亡率90%。全ての建物が破壊。 |
3. |
過酷な爆風損害地域 半径1.75マイル(約2.8Km)まで。
死亡率65%・負傷率30%。
橋・道路損壊。川の流れは逆流。 |
4. |
過酷な熱損害地域 半径2.5マイル(約4Km)まで。
死亡率50%・負傷率50%。
死亡はほとんど火災のための酸欠死。 |
5. |
過酷な火災と風による被害地域 半径3マイル(約4.8Km)まで。
死亡率15%・負傷率50%。
もし生きていても二度三度と火傷を負う。
参考資料:http://www.inaco.co.jp/isaac/back/006/006.htm
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半径1マイル(約1600m)は建物全壊地帯である。まさかアラモゴードでの全壊建物が日本基準でそうていされていたわけではあるまい。また米国戦略爆撃調査報告の執筆者が、この実験の報告書に目を通していなかったとは考えにくい。目を通していなければ、実験との比較で、原爆の効果を正しく評価出来るはずがないからだ。こうした視点で以下の記述を読んで欲しい。)
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数奇な運命をたどる原爆ドーム
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しかしながらある種の建造物は、アメリカの地震用標準建築基準に照らしてみても、遙かに頑丈に出来ていた。さらに日本では1923年の地震(* 関東大震災のこと)以来、耐震建築基準が強化され、屋上は1平方フィート(約0.1平米)あたり70ポンド(約33.6Kg)以上の耐荷重が必要とされていた。アメリカの基準では同様な建物の屋上耐荷重は40ポンド(19.2Kg)以上ではなかったのである。この基準が常に遵守されたわけではないが、広島の爆心点にあった建物のうちいくつかは、飛び抜けて頑丈に作られていた。建築上の欠陥もなく原爆の衝撃に対しても耐えうる能力を疑いようもなく持っていたと言うことである。
(広島市内の)住宅の7%近くが防火帯を作る目的で壊されていた。
戦前広島は人口34万人を越える日本でも第7番目に大きく、また日本の西南部における行政・商業の中心都市だった。第2軍の司令部及び中国地方軍の司令部の地として、日本に置いてもっとも重要な軍事司令基地の一つだった。また日本でもっとも主要な軍事補給基地の一つでもあった。さらにまた、軍事部隊及び軍事物資の出発点としても当代一級でもあった。しかし原爆投下時は、船舶の撃沈と瀬戸内海における地雷敷設のため、事実上そうした積み出し機能は停止していた。戦前産業分野は、(軍事や行政における重要性と比較して)、さほど重要とはいえない。精々「拠点の一つ」といったところだろう。工場は集中しておらず広島市の周辺に広く分散していた。のちに見るように産業分野でのダメージはさほどでもなかった。
原爆による衝撃は、地域生活の日常組織とこの災危に対応する諸機関を完全の閉じてしまった。人口の30%が死亡し、同じく30%が重傷を負ったのである。この中には広島市の現業職員部分を含んでいるし、救助グループも含んでいる。
(* |
広島の衝撃を報告するにしては、何とも悠長な叙述ではある。私なら「市民生活は当然完全に破壊された。市内中至る所に死体や重傷者があふれ、救助どころか歩くことすら不可能だった、とでも書くだろう。しかし原爆を直接目撃した人なら、一言「形容する言葉が見あたらない。文字通り地獄だった。」) |
市内から夥しい人の群れの「渡り」が発生した。(市内から逃げ出した。)人々は大火災から逃れて安全な場所を求め、あるいはシェルターを、食料を求めて移動したのである。しかし、24時間以内に数千の単位で市内に戻るため幾条もの人々の流れがおこった。家族や友人の安否や自分の財産の損失を確認するためである。市内へ通じるすべてのルートは破壊されていた。野次馬や無関係な人間は立ち入ることが出来なかった。家を失った人々は周辺の田舎部分に難民として逃れていった。広島市内では、食糧が不足し、シェルターは事実上なきに等しかった。
8月7日、本土防衛の総司令部である第2総軍の総司令官及び当該地域の軍事部隊・設備は救助目的で移動した。
市の周辺部にあった陸軍の建物は、シェルターや緊急避難所を提供した。破壊から免れたわずかばかりの陸軍の食糧や衣服類は提供され瞬く間に雲散霧消した。必要な量は、実際の量と較べて遙かに大きかったのである。生き残った民間人も救助に走った。とはいえ8月7日に活動できたのは、190人の警察官と2000人の民間救助隊だけだった、と報告されている。双方のグループとも被害は甚大だったのである。
(* |
第2総軍の総司令官が畑俊六だったのはせめて救われる。これが松井石根だったらどうであろうか・・・。) |
医療設備と人員に関する状態は、そのまま当局が直面した困難を劇的なまでに物語っている。
(原爆の)攻撃前に200人以上いた広島市内の医師のうち、90%以上が死亡又は損傷した。
投下の1ヶ月後ですら通常勤務につける医師はたった30人しかいなかった。1780人いた看護婦のうち1654人が死亡したかまたは負傷した。医薬品といえばほとんど破壊されたが、残ったものもあっという間になくなった。45の民間病院のうちたった3病院だけが稼働できた。2つの大きな陸軍病院があったが、機能不全というのがふさわしい。爆心地から3000フィート(900m)以内は完全に破壊されており、そこの住民の死亡率は事実上100%だった。爆心地から4900フィート(約1500m)離れたところには鉄筋コンクリート建ての大きな病院が2つあった。
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医療に関する記述から明らかに書き手が替わっている。使用する数字は出来るだけ精確にしようと努め、よけいな形容や気の利いた表現も影を潜めている。だから、とても訳しやすい。どこかにヒューマニズムのにおいがする。冷静な叙述の背後に、私には、「何故アメリカは救助医療チームを派遣しなかったのか。」と怒っているようにすら読める。しかし、この時トルーマン政権は原爆の投下及び使用に関して徹底的な報道管制を敷いていた。大規模な救援医療チームの派遣などは考えても見なかったろう。米陸軍戦略航空隊総司令官カール・スパーツへあてた指示書参照のこと。http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Robert-6.htm ) |
(この2つの病院は)建物の骨格は残っているものの、内部は酷く損傷を受けておりしばらくの間は、病院としての再開は不可能な状況だった。損傷率は約90%で、主として天井からのプラスターボードの落下、飛散したガラスの破片、火災などが原因である。(爆心地から)7000フィート(約2100m)以上離れた地点にある病院や診療所は、しばしば建物として残ってはいるものの、やはりひどく損傷を受けており、ガラスの刺さったものとかその他の飛散物で傷ついた負傷者を収容していた。
この災危の際、物資や人員がなきに等しい状態で、手当や救援活動が不足していたことは、十分理解できる。さらに、ジーメス神父の目撃証言は、第一次手当が不足してことが、この損害を大きくすることになったかを裏付けている。
急ごしらえの第一次救護所でジーメス神父は、次のように報告している。
「負傷者にはロディン (* lodine 医薬品の一種らしい。タブレット状の飲み薬らしい。)がありましたが、不衛生な状態でした。使える軟膏もセラピューティック(* therapeutic
Agents これも医薬品らしい。)もありませんでした。運び込まれた人たちはただ床に横たえられるだけで、誰にもそれ以上の手当が出来なかったのです。何も手だてがないのに、誰に何が出来たと言うんでしょうか?(救護所を)通り過ぎる人の中には、負傷していない人もいました。この災危のあまりの大きさに、みんな悲しみで狂ったようになり、夢遊状態で、我を忘れた状態でした。(* In a purposeless, insensate manner, distraught by the magnitude of the disaster,)ほとんどの人は急いで通り過ぎました。だれも自分が中心になって救援組織を作ろうなどという考えは思いつきませんでした。自分の家族の安否のことを考えるのに精一杯だったのですから。正式な救護所に運ばれてきた人たちは、1/3以上もしかすると半分ぐらいは死んでいきました。彼等はそこら中にほったらかし同然に横たわっていました。(* lay about there )手当はないも同然でした。そして非常に高い率で力尽きて死んでいきました。(* ここはsuccumbedが使われている。)すべてがないないづくしでした。医者も、助手も、衣類も、薬も・・・」
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原爆投下後の広島・長崎は当時米軍の厳しい検閲のもとにあった。外国人ジャーナリストは南日本への立ち入りを厳禁されていた。当時広島か長崎に潜入した外国人ジャーナリストは3人いた。3人とも記事は書いたが、2人は検閲にかかり記事は没になった。記事の掲載に成功したのはモールス発信器持参で広島に潜入したウィルフレッド・グラハム・バーチェット一人であった。その時、彼の書いた記事が有名な「The
Atomic Plague」である。
―ご用とお急ぎでない方は以下を参照
「投下を推進する勢力」http://www.inaco.co.jp/isaac/back/009/009.htm―。
米国戦略爆撃報告もまた発表されることを前提にした報告書だから、事前検閲があったはずである。このことを念頭において上記ジーメス神父の目撃証言を読むと、「なぜ世界は、特にアメリカは、救護団を組織しないのだ。」といっているように、私には読める。さらに行間から神父の怒りが汲み取れる、というと私の読み過ぎか。) |
有効な医療援助は外からもたらされるべきものだったが、もたらされたときはかなりの程度遅かった。
消防活動、救急活動も同様に人員と器具をはぎ取られた状態だった。ジーメス神父の報告によれば、組織だった救助隊の姿を見かけたのは、(投下後)30時間経過したころだったという。広島には消防活動に必要な、消防器具がたった16個しかなかった。しかもうち3つは借りてきたものだった。
しかしながら、世界のどんな消防機関でも、たとえ人員も器具も無傷だったとしても、市内のそこここで起こったている広島での大火災を防ぎ得た、あるいは成功したということはおよそありそうにもない。
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ここで、ジーメス神父に関する説明が見える。* ドイツ生まれの上智大学のイエズス会の教授。原爆が落ちたとき広島在住、とある。) |
公共サービス及び輸送サービスはそれぞればらばらな期間で途絶した。しかしながら、(それらに対する)重要も提供できる供給より遙かに落ち込んでおり、それらサービスは必要なところは最低限で再開できた。
蒸気機関車を動かすのに、水圧が低かったため消防車のポンプを依然として使わなくてはならなかったものの、8月8日、(原爆)攻撃からたった2日後、鉄道はなんとか動く状態になった。
電力は広島市内の焼け残った部分から一般送電線を使って、8月7日に使える状態になった。ただ一つの工場、三菱重工業のエンジニアリング部門は、十分な電力供給がなかったため、数週間の間復興を妨げられていた。
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公共サービスの下りから、また書き手が替わったようだ。比喩的表現、もって回ったいいかたが目立つようになる。) |
貯水池は鉄筋コンクリートで出来ており、また地表も鉄筋コンクリートで覆われている。損傷は受けなかった。爆心地から約2マイル(約3.2Km)離れたところにある。しかしながら、爆発や火災が原因で、約7万カ所にも及ぶ亀裂が建物や器具・装置に見られた。爆発の影響で地表面に近い送水管はすべて潰れるか、または水漏れを起こしていた。また地中の送水管はがれきの落下のため数カ所水漏れがあった。
広島市内中心部での水圧はゼロに等しかった。一つには送水管があちこちで破断していたためであるが、もう一つはわたしていた橋が損壊したため、16インチ(約直径40cm)と14インチ(約直径36cm)の主送水管が損壊したためでもある。6カ所あった下水道ポンプ所は、火災と半径1マイル(約1.6Km)以内に発生した爆発のため、手の施しようがない、と形容すべき状態だった。のこり8カ所は、ほとんど損傷を受けていなかったが、修理や稼働へ向けての努力はなされなかった。満潮時地下水面が上昇し堤防の背後の陸部は冠水した。
市内電車、トラック、鉄道の全車両(* railroad rolling stock)はひどい損傷で手が焼けた。乗客輸送関連の建物(事務所、駅、居住地域、それに2−3の倉庫など)は、火災で損傷を受けた。しかし鉄道機関車庫、港湾の上屋、倉庫、修理関連地域及び立ち入り禁止区域の修理設備は大きな損傷を受けなかった。鉄道従業員のうち200人が死亡したが、8月20日(原爆投下から2週間後)までには、80%が現業に復帰した。
電力に関しては送電システム及び配電システムが壊滅した。ただ頑丈に建造してある発電設備、たとえば変電装置などが廃墟となった区域でも爆風や熱に耐えた。機器類は修理不可能なほどに損傷した。切り替え器、切り替え所の絶縁器、電線、銅心線工場などは使用不能といってよかろう。電話システムはおよそ80%が損傷した。1945年8月15日までは全く電話サービスは復旧しなかった。
広島市内中心部の産業は実際的にはかき消えていた。小さな職人作業所は数千を数えていた。しかしそれは多くが1人、2人の作業所であり、広島全体生産高の1/4を閉めたに過ぎない。広島市の生産高の大きな部分は、周辺部に位置した大規模な工場からもたらされていたのである。市の産業生産高の1/2は5社からのものである。これら大規模会社のうち、1社だけが単に表面つらに過ぎない、と言う以上の損壊を受けたのみであった。これら(大規模工場の)現業労働者のうち94%までが負傷しなかった。電力供給がなされ、原材料と労働者の供給がなされれれば、(原爆投下)から30日以内に、広島市内の全産業の3/4は生産を再開できたことになる。戦争が続いていればの話だが。
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ここは随分奇妙な記述である。いっていることを要約すると、1.広島の生産の3/4を占める大工場は周辺部にあり、原爆の損害は比較的大きくなかった。2.もし戦争が継続され、電力、原材料、労働者さえ供給されれば30日以内に広島は全生産の3/4を回復できたろう、ということになる。
通常兵器信奉者の戦略爆撃調査報告団は、「だから原爆はいうほど戦争の動向を左右しない。」という見方を仄めかしたかったに違いない。しかしそれでは話が違う。広島などへの原爆投下が議論され、最終的に軍部が提案した投下目標リストが承認されたのは1945年5月10日及び11日の投下目標委員会だった。この委員会はオッペンハイマーの常駐するロス・アラモスで開催された。議事録原文は次で読むことが出来る。http://www.dannen.com/decision/targets.html この時京都(AA)、広島(AA)、横浜(A)、小倉兵器敞(A)、新潟(B)の5都市の選択が決定された。
半月後の5月31日には、この投下目標選定を受けて暫定委員会で、原爆使用の基本方針が示されている。それによるとー。
「 日本には警告なしに投下する、一般市民が住む地域はあまり考えない、しかし、日本の住民にできうる限り大きな心理的効果を与えることを模索する。コナント博士の提言に基づいて、陸軍長官は、最も望ましい目標は、極めて重要な軍事工場であり、かつ大勢の従事者が働いており、かつ従業員の住宅に隣接して囲まれているような所、ということで同意した。 となっている。
戦略爆撃報告を読むと、広島への投下はこの日の暫定委員会の決定を全く反古にしていることになる。投下されたのは、観音、江波 府中といった広島の周辺部にある大規模工場地区に対してではなく、戦略爆撃報告書も認めるとおり工業生産地区としては意味のない広島中心部だった。むしろ上記条件にぴったり合致するのは観音の三菱重工業ではないか。広島に住んでいる人間なら誰でも納得するだろう。
この日の暫定委員会はこの決定を下した後、一所複数投下の可能性について議論したが、グローブズがこれに反対して3つの理由を挙げた。
(1) |
1回1回の連続攻撃でこの兵器に関する追加情報の獲得の利点が失われてしまう。 |
(2) |
このような計画は爆弾製造を相当急がせることになり、かえって効力の薄いものなるかも知れない。 |
(3) |
通常空軍による爆撃計画との違いを十分には際だたせないかも知れない。
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この暫定委員会の議事録は、以下で読むことが出来る。http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Interim%20Committee1945_531.htm
投下予定日までに2発製造する自信がなかった点は考慮するとしても、このグローブズの理由を良く読んでみると、
(1) 原爆投下による生のデータが欲しかった。
(2) 通常空軍爆撃とどれほどの違いがあるか確かめたかった。
と言うことになる。
米国戦略爆撃報告のこのくだりと読み合わせてみると、結局グローブズは、暫定委員会で決定された投下方針を事実上棚上げにして、軍部が狙った通りの投下(広島中心部への投下)を行ったと考えざるを得ない。そういえば、暫定委員会の常時メンバーであり投下目標委員会の常時メンバーだった人間は、グローブズとオッペンハイマーの2人だけだった。またおかしなことに、投下目標が最終的に決定された5月10日・11日の投下目標委員会にグローブズは欠席している。マンハッタン計画の執行最高責任者であるグローブズが、この会議に欠席するとは納得いかない。その時点で、グローブズにとって投下目標決定より重要な要件があったとでも言うのか。これは後で暫定委員会などから約束違反で責められた時のアリバイ作りではなかったか?
この投下目標委員会の後、AAのトップにあげられた「京都」に対する原爆投下は、陸軍長官でありまた暫定委員会委員長であり、またマンハッタン計画の執行責任者にグローブズを選んだヘンリー・スティムソンの強硬な反対にあって取り下げられている。しかし、グローブズはあきらめず、ポツダム会談でベルリン郊外にいたスティムソンに対して電報を打たせて、「京都原爆投下」の許可を求めている。
この時スティムソンは再び拒絶したが、このいきさつを見てみると、グローブズが原爆投下に関して考えていたことがおおよそ浮かび上がってくる。
ここで大きな問題はグローブズが誰の利益を代表して動いていたかだ。その勢力に較べればグローブズなどは小物である。) |
(原爆)攻撃の直後には、広島市の潜在生産力を維持する努力に拍車がかかっている。これは、本土防衛強化のための努力の一環であった。広島県知事は、8月7日宣言を発し、「うちひしがれた広島市の再生と悪魔のようなアメリカを粉砕するための戦意高揚」を訴えた。
噂の拡大を防ぎ、戦意を高揚すのために、広島市の外部から21万部の日刊新聞が持ち込まれ、壊滅した地元紙にとって替えた。8月16日には通常の配給が再開された。負傷者の手当と遺体の始末が緊急課題で、その他の点はほとんど遅々として進まなかった。
11月1日までに、広島市の人口は13万7000人にまで回復した。市の建物は完全な再構築が必要だった。広島市の心臓部、主要行政機関、商業地区は住宅地区と共になくなっていた。この地域ではたった50ばかりに建物がーすべて鉄筋コンクリート建築だがー残っていた。すべて爆風で損傷していた。またうち12は火災のため中身はすっかりなくなっていた。5つの建物が大規模な修繕を施した上なら使える状態だった。あたりはかつてそこにレンガの建物か鉄筋の建物があったことを示す瓦礫や、ひん曲がったむき出しの鉄骨が山と積み上がっており、残った建物はそうした灰燼の中に印象的にぽつんと立っていた。軽量鉄骨の建物やレンガの建物が損傷を受けなかったのは、(爆心地から)相当距離の離れたところである。木造建物及び住宅に対する爆風による損傷は、焼け野が原となった地域(burnt
over area)より遙かに広い範囲に広がっていた。こうした損傷は、距離が離れるに従って、徐々に不規則にまたぽつんぽつんと見られるようになり、ついには極端に弱い建造物にしか見られなくなり、最後には屋根の瓦がこわれたとか窓ガラスが壊れたとかといった軽微な障害が見られる広島市の郊外付近まで続くのである。広島市の公式な算定では、都市部9万戸の建物のうち壊滅状態(destruction)は6万2000戸あるいは69%だった。またこれとは別に深刻な損壊(severely
damaged)が6000戸あるいは6.6%だった。その他は屋根瓦がとんだとか窓ガラスが壊れたとかといった類の損傷である。これらの数字は生存者が直面した問題の大きさを示している。衛生維持の手段がなかったにもかかわらず、深刻な伝染病の発生は報告されなかった。医療施設、医療品や人員などの欠如などの観点から見て伝染病から免れ得たのは驚きと見えるかも知れない。ドイツや日本のおけるその他の(通常兵器による)被爆都市での経験から見て、このことは例外ではない。唯一可能な説明は大火災が殺菌・消毒をしたと言うところにあるかも知れない。数週間後には病気の発生率は上昇した。しかしさほど大きくはなかった。
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この報告書を読みながらずっと気になっていることがある。緒言で「調査団の理事たちは原爆の効果について自ら消耗するほど徹底的に調べることに決めた。日本に与えた影響・この結果が意味するところのものなどに関して、自信をもった分析であるべきだと考えたからである。」と大見得を切っている割には、報告に迫真性がないのである。これまで広島での医療体制の欠如の叙述を除けば、叙述が平板だ。一つにはこれが要約報告である点も割り引いておかねばならない。しかしそれだけではない。原爆をもっと多方面から、いろんな視点から眺めてみようという気迫に欠けている。収集したデータや事実をいろんな目で眺めてみようと言う観点がないのである。それがこの報告書から迫真性を殺ぎ、平板なものにしている。
典型的にはここの「伝染病」が発生しなかった、と言う記述である。唯一可能な説明は大火災に殺菌消毒効果があったのでは、と言っているがこれだけでは全く説得力がない。たとえば、ドイツも日本も共に衛生観念や衛生に関する知識の普及した国である。また文盲率も極端に低い、と言うことは衛生に関する観念を普及しやすい環境にある。衛生観念の普及が伝染病の蔓延を防いだ、と言う見方をしても「大火災殺菌消毒説」より説得力に劣るわけではない。−こちらの方がよほどありそうに思うが-。要するに一つの結論を引き出すにあたって、多方面から検討した痕跡に乏しいのだ。これが米国戦略爆撃報告書(まだ一要約でしかないが)を貫く大きな特徴である。アラモゴード砂漠での最初の原爆実験成功を伝える、グローブズからスティムソンに送った報告書に較べると遙かに見劣りする。あの報告書は、実験に立ち会った科学者の抱いた感情まで共有できる優れた報告書だった。) |
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